優しいやつ以外はさっさと死ね

隅っこで戦闘モード

いつかは働かない!

 

私の夢は、働かずして生きていくことだ。

 

仕事が嫌いなのではない。暇が好きなのだ。

あぁ、やることねぇな〜暇だなぁ〜

なんて思ってるその瞬間に

止め処なく幸せを感じて病まない。

 

「働く」という言葉にも意味はたくさんあって

一般的に思い浮かぶのは「お勤め」。

 

働くことが嫌い!というよりは、

その「お勤め」が嫌いなのだ。

 

お給料を貰うのだから

自分のやれることを限界まで頑張らなければ

職場に迷惑かけるから倒れても働かなければ

 

そんな空気が社会にはある。

 

正直疑問に思ってきた。

労働力に対する対価、能力に対する対価

ほんとうに、「対価」なのか?と。

お給料という言葉の雰囲気に飲まれて

「労働力」の方が搾取されている

そんな気がしてならないわけです。

労働力だけでなく、もちろん能力も。

 

誰でも一度はあるのではないだろうか。

となりのあの子、ほとんどサボってるし

あんまりこれと言った実績もないのに

時給はわたしと一緒。

 

なんか悔しい、と。

 

そう思ったことがあるなら既に、

そのお給料は

「対価」という聞こえのいい言葉を纏っただけの

搾取の可能性があると思うのだ。

 

だからと言っても悔しいことながら

それが社会の一般的仕組みなので

どうしようもないし、

それに異議申し立てた方が変人扱い、

またはアマちゃん扱いをされるわけで。

 

ただ私はそうやって搾取され続ける人生は

想像するだけでも嫌で嫌で仕方なく

日々の疲れのわりにお金がない現実を

ずっと会社のせいだと思って勤めるのも

辛くて不幸なことだと思うのだ。

 

人を疑ったり、責めたりすることないよう

お金がないのは自分のせいでありたい。

疲れているのは自分のためでありたい。

 

 

働かなくて、どんなに貧しくても

それが自分のせいだと分かっていれば

きっともっと健やかだ。

 

全責任を負うから自由でいたい。

 

お金はいらない。

 

そのかわり永遠に心健やかに生きさせてくれ

 

 

 

 

 

 

黒歴史生産メーカー

お題「わたしの黒歴史」

 

私は比較的、他の人間に比べると

バカな方かもしれない。

 

恵まれた人生をおくってはきたが、

私個人の行動は珍妙なものが多い。

思い出すと恥ずかしすぎて

ブツブツ謎の言い訳を

ふと発してしまいそうな

人に話したくない過去がそれなりにある。

 

それらの正体こそ、黒歴史というもの。

 

ちゃんと考えて賢く行動していれば

黒歴史は存在しえない。

バカだから生まれる。

生みだしてしまう。

 

数多く黒歴史を持つ私は間違いなく

バカの類なのでしょう。

 

このブログさえ、もしかしたら数年後

いや数ヶ月後に見返したら

黒歴史になるのかもしれない。

 

私の黒歴史は更新中なのです、きっと。

 

あなたの黒歴史は何ですか?

という問いに対して

「あの人と付き合ってた時代」

「あの人とケンカしてたとき」

と、相手のせいにできる人は幸せです。

 

私の場合、私が悪いパターンが多い。

私は私を時間差で傷つけるのが得意らしく

自分でトゲ付きの鉄球を投げておきながら

魔球なのでしょうか、自分に返ってきます。

 

明らかなバカです。

 

私の黒歴史は、

SNSやインターネットに

まつわる件が多い。

試したことはないですが、

炎上も得意分野かもしれません。

 

高校生のときはデコログが流行っていた。

お金が欲しかったから

アフェリエイトと連動させ、

閲覧数を稼ぐために

過激なことを書いてみた。

自分の好感度を犠牲にしたくせに

期待したほどは稼げず。

 

あれ以来アフェリエイトには

興味が出ません。

 

SNSやブログって昔はなくて

目の前にいる人の人物像は

目にうつった情報のみだったはず。

 

心のうちに秘めておけたはずの言葉が

SNSを伝い、情報となって多くの人に届き

人の知りたくない一面まで

それぞれが自ら晒してしまう現代。

 

そんな情報世代にありがちな失敗を

私はことごとくしてきたことでしょう。

その1つ1つが黒歴史となって

自分の中に残っているわけです。

 

サイトは消せても人の記憶は消せないから

今でも私を妙なやつだと思う人が

まあまあいることでしょう。

 

そして案外、私は妙なやつのままなのです。

だってそれだけSNSやブログで

恥ずかしい思いや悲しい思いをしてきたのに

 まだブログやってるんですから。

 

私がブログやら小説やらをネットで

書き始めたのは小学校5年生のとき。

 

小説はありきたりな冒険ものしか思い浮かばず

あまり得意ではないと感じる一方、

毎日のブログにはかなり執着していた。

 

昔から文章を組み立てるのは楽しかった。

誰かの感想、コメントが欲しいのではなく

書くとまるでそれらが芸術作品のようで

下手くそながらに愛おしかったから。

 

長くパソコンの前に座っていたものです。

 

たぶん、初めて自ら始めた趣味だった。

子どもの頃から文章を考える時間に

すごく楽しみを見出していて

その時間は無我夢中でキーボードを打った。

 

前世は、物書きだったのかもしれない。

そして今も、物書きになろうとしている。

 

たださすがに、10代の頃とは

文章のテンションが違う。

最近では(笑)さえもつけなくなった。

 

確実に年をとりながら、それでもまだ

心の中を文字にしたいのでしょう私は。

 

この調子じゃ黒歴史は引き続き

生産され続けることでしょう。

 

バカは生涯治りませんな。

 

ひな祭り

 今週のお題「ひな祭り」

 

先日、帰省すると雛人形が飾られていた。

もう26歳になるというのに、

数日滞在する娘の私のために

雛人形を飾ったという。

 

小さな頃からあった雛人形

雛人形の相場は知らないが

きっと安くはない買い物だっただろう。

 

私が記憶も定かでない小さい頃、

母と父があれじゃないこれじゃないと

一緒に探しにいったのだろうか

それとも祖父や祖母が買ってくれただろうか

 

二十年以上前になるそれを想像すると
とても温かく、優しい気持ちになる

 

年に数日の、必需品とも言えない雛人形

転勤族の父と母は荷物も多い。

その中で、年に数日どころか

もしかしたら飾らない年すらあるだろう

けれど重く、扱いの面倒くさいそれを

何回もの引っ越しの度に捨てず、

また、次も持っていく

 

母は、三人官女までの雛壇を

小さい雛壇でごめんね、と言った。

けれど私はその雛壇を

小さいと思ったことは不思議とない。

 

私がお雛様に興味がなかったせいか

雛壇を見た記憶は多くない。

せっかく一人娘のために買ってくれたというのに

こちらこそ申し訳ないものだ。

「恋だのは二の次、母の愛に今気づけ」

と、中高生時代の自分に言ってやりたい

 

雛人形をとおして今更だが、
母の思いに気づけた私は幸せ者だ
その思いに気づく娘をもてて
きっと母も、もちろん今更だが

幸せだと思う


世界はこういった優しい気持ちで
溢れているべきだ

だってこの文章を書いてる私は

今、とても幸せだもの

 

私が帰省する日に合わせて母は

記憶を頼りに飾り付けをしたという

 

菱餅を置くはずの台には

チョコレートがおかれていた。

そこにいるはずの菱餅

全く違うところに配置されていた。

 

間違いに気づいたのは

両親と小さい頃のアルバムをみたときのこと。

偶然、その雛壇と映る私の写真を見つけた。

 

母が小さいと言うその雛壇は、

二十数年前の私の後ろにあった。

 

それは幼き頃の記憶通り、

大きく立派な雛壇だった。

 

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最初に言っておく

 

 

私の思考を整理し、

私の輪郭をなぞり私が私を知るための

ひたすら私のためのブログです。

 

もちろん私以外の誰のためでもないので

あなたのための、でもなく。

 

なんせ

 

日々、思うことが多すぎる。

考えることも多すぎる。

 

考えないといけないことが埋もれるくらい

たくさんの情報の中で生きていて、

自分でその優先順位がつけられない。

 

誰かに話すわけでもないのに

いつも何かを説明するための

言い訳や理屈を考えていたりするし

 

人を目の前にしたら何も言えないくせに

攻撃されたとき用に盾となる言葉を探す。

しかし現実、とくに誰も攻撃してはこず

思いふけった時間は無意味になることが多い。

杞憂に終わる、とはまさにこのことで

してやられた、とさえ思います。

 

私はいつも頭の中で誰かと戦っている。

誰とでも戦っている。

心は戦国真っ只中なのです。

 

「もしあの人が私を悪く思ったら」

「もしこんなことを言ってきたら」

「あのとき、こう言っていたなら」

 

動かないサンドバッグを相手に

想像上で戦っているわけです。

来たるいつかのための、まさかのための

シミュレーションなのです。

 

これは病気でしょうか。

それとも誰もがこんな感じなのか。

 

人の頭の中はどうなっているのだろう。

 

私は自分の感情を整理できず

頭の中はひたすら、

作文ほども綺麗でない

段落の変更すらないくらい

ひたすら、ただひたすら、

縦書きの文章がズラリズラリと増えていく。

 

この思いを、誰のチェックも受けず

誰かに訂正をされることもなく

全て吐き出してどこかにぶん投げられたなら

どんなに気持ちいいだろうか

 

と、思っていたわけです。

 

きっと誰にも注目されないこのブログで

このひろーい世界の片隅から

隅すら見えないインターネットの片隅に

 

「優しいやつ以外はさっさと死ね」

と、叫び続けてやるのです。